今月の法話
■「滅罪が世界を幸せにする」【2018年2月の法話】
日本では古代の人々の神に対する考え方は、神は人間を慈しむ存在ではなく、篤く祀らないと祟りを引き起こす恐ろしい存在であった。また、亡くなった死者の霊魂も、危害を加えかねない恐ろしい存在だと考えられていた。
仏教が伝来した時、仏は「蕃神(あだしくにのかみ)」と呼ばれ、外国の神として理解されていた。最初の出家者が女性(善信尼・禅蔵尼・恵善尼)であったのも神に仕える巫女と同じようにとらえていたためだと考えられている。
あまたの経典の中の一つに「法華経」がある。国分尼寺が「法華滅罪の寺」と呼ばれていたように法華経が注目されたのは、諸法実相でも久遠実成ではなく、滅罪の機能だった。また薬師如来は、治病の仏であるが、奈良時代には薬師悔過(過去に犯した罪を懺悔し、薬師仏の力によってそれを滅してもらう修法)の本尊として用いられ、心身の清浄をもたらす仏として信仰を集めた。法華八講も法華三昧堂も滅罪のためであり、この信仰は必然的に苦行による滅罪・贖罪と結んで法華経を自誦して山林苦行と回国を行う持経聖ができていく。
新たに伝えられた仏教の滅罪と清浄の論理は、荒ぶる死霊(魂)の浄化つまり鎮魂儀礼としてとらえられることになった。また、生前から仏教の力で罪を払い落とし、死後に浄化の完了した魂のあるものはやがて別の身体を得て復活するという「輪廻転生と七世の父母」の観念も広く受容された。仏教の輪廻転生論は、古代人がイメージした生まれ変わり=魂のサイクルの理念に適合して受け入れられたと考えられる。
そのような背景のもと、弘法大師が唐より持ち帰った密教の教えが、死者の生前のみならず現世でも犯した罪と穢れを速やかに滅して、生死供に煉獄の苦より救う滅罪と鎮魂の宗教として現在に至っている。
滅罪生善という言葉がある。これは悪行の因を滅しそれを良い方向に向ける方法のことである。心から懺悔して仏法僧の三宝に帰依することなのである。この事によって罪業は日光に照された霧のように跡形もなく消える。その人は心身ともに洗いたての白布のようにきれいになることができる。これが滅罪である。我が父を殺したアジャセ王が、その報いで不知の病にとりつかれた時、釈尊の懺悔の教えで救われたという有名な観無量寿経の話は滅罪と物語る代表的なものである。
私たちは自身への執着(保身・自己中心)・煩悩があり、知慧がないため、罪を重ね続けている。作った罪は、許してもらって初めて滅罪となる。独りよがりの懺悔ではなく、許してもらえるだけの誠意努力が必要となる。そして自身も相手の罪を許せるようにならなければならない。そうすれば私たちの世界はもっと良い世界になるのではないでしょうか?
(酒井 太観)