今月の法話

■「登龍門」【2024年3月の法話】

 

 三月となり卒業を迎え、一つの区切りとなり、また新しいスタートが始まる準備をする時期となりました。

 これから何かを成す為に通り抜けなければならない難関のことを「登龍門」と言います。日常でもときどき使われる言葉ですが、この言葉の由来となった伝説があります。「三級浪高魚化龍(さんきゅうなみたかくしてうおりゅうとかす)」という言葉に由来するもので、中国では古くから黄河の氾濫が大きな問題となっていました。黄河の氾濫によって人々の生活はあっという間に崩壊してしまう、という歴史的に何百年も繰り返してきました。

 ある時、そんな氾濫を何とか食い止めようと、鯀(コン)という僧が王に治水工事を命じられます。しかし何百年にわたって人々を苦しめてきた工事ですからそうそう簡単ではありませんでした。何十年も失敗したあげく、鯀は黄河の上流の川を三段に切り落とすという大胆な方法によって見事に成功。その三段切り落としたところに三つの滝ができ、これが「龍門三級の滝」と呼ばれるようになり、いつしか「険しい三段の滝を登った魚は龍になる」という伝説が生まれ、「三級浪高魚化龍」という言葉になりました。「その険しい滝を登らなければ龍にはなれない」すなわち、事を成しとげられないという意味で「登龍門」という言葉が生まれたというわけです。ちなみにこの滝を登って行く魚は端午の節句で立てる「鯉のぼり」の由来にもなっています。ひるむ事なく、上へ上へと突き進んでいく大切さを説いているわけです。しかし「三級浪高魚化龍」のあとに「癡人猶戽夜塘水(ちじんなおくむやとうのみず)」と続きます。「愚かな人々は、魚が龍になったのも知らずに、魚を捕るためにいつまでも川で水をかき出し続けている」という意味で、同じ努力をするなら、自らも険しい滝を登り、龍になるべくがんばればいいものを、「目の前の魚」という即物的なものに囚われ、いつまでも実らぬ努力を続けてしまう。そんな愚かさを言い得ている言葉なのです。

 魚もいないのに必死で水をかいている、私たちの日常に目を向けてもそんな愚かな行為を必死で繰り返している人はいくらでもいるものではないでしょうか。自分の欲望の為だけに必死になっている人もいれば、身近な人が気に入らず陰でせっせと悪口を言い続ける人、それが「パワハラ」、「モラハラ」につながっていくのでしょう。ほんのちょっと冷静になって物事を見る事ができれば、自分の行為の愚かさがわかるというのに当の本人はなかなか気付かないものです。決して他人事ではないと思います。人間ですから、ときには間違うこともありますし、愚かな行為に邁進してしまうこともあります。

 でもその時こそ、いつまでも迷いの世界で右往左往せずに、自らの愚かさに気付ける人になって、春からの新しく始まる「登龍門」としてスタートしていきましょう。

合掌

(三松 庸裕)

 

 

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