今月の法話
■「御霊(みたま)」【2024年10月の法話】
少し暑さが和らぎ、朝晩は心地よい風が吹く頃になりました。今年も非常に暑い日が続き、日本各所で最高気温更新、といった事もよく耳にしました。また暑さだけでなく、雨も局所的に多く降ることもあり、線状降水帯によって水害を受けた地域も少なくありません。大雨による災害と申しますと、安佐北区・安佐南区で発生した広島豪雨災害から丁度十年を迎える年にもなります。
日々の生活を送る中で、我々は未来に起こりうる事など知ることはできません。良い事があるかもしれない、良い出会いがあるかもしれない。はたまた、災いに巻き込まれたり、事故にあったり、災害にあったりなど。ではもしあなたが急に災いに遭い亡くなったとしましょう。自分ではその事が分からず、自分の中では日常を送っています。当然、周りの人から見えることも無く、気づかれもしません。するとあなたはどうしますか?気づいて欲しくてなにか行動をするのです。結果、生きている者たちにとってはそれが祟りといったり、○○の霊といった事を言っているわけです。
日本では古くより、人が亡くなってすぐは荒ぶる魂、荒御魂(あらみたま)。子孫により供養された後は和らいだ魂、和御魂(にぎみたま)になると言われています。その供養されなかった御魂が荒御魂のままとなり、我々に災いをもたらすのです。我々はいま生きている上で子孫として、先祖の霊を供養しなければなりません。これは宗教的な意味もありますが、亡くなった方を供養し、気づかせてあげる、次の生へと送り出せるのは身近にいた我々にしかできないのです。
私たちは日々出会いと別れ、御縁の中で生きています。そして、いつ始まりと終わりがあるかなど誰にも分かりません。
人間ですので時には間違えます。喧嘩もします、少しの行き違い、言葉の綾で他人を傷つけたり、後から後悔したりすることもあります。もしかするとそれが最期になる時もあります。その過ちからくる後悔の念というのはいつになっても忘れられないもので、謝ろうと思い返した時に限って手遅れになっていることがよくあります。自分が正しいと思い張るのもいいですが、時には立ち止まって相手の気持ちを考えてみてはいかがでしょうか。
人間いくつになっても気付きの日々なのです。
(江本 康亮)