今月の法話

■「油断」【2019年1月の法話】

 

 大同元年(八〇六年)、弘法大師が弥山山頂で百日間に及ぶ求聞持(ぐもんじ)の秘法を修して以来、約千二百年間今日まで途絶えることなく燃え続ける霊火。弥山七不思議の一つ「消えずの火」として燃え続けています。

 油断という言葉の由来をご存知でしょうか?その由来には諸説ありますが、一つは、原始仏教の経典の中にあります。

 その昔、インドのある乱暴な王様が、家臣に油を入れた鉢を持たせたまま人の多い通りを歩かせ、「もし油を一滴でもこぼせば命を断ずる」と命令しました。家臣は周囲に目もくれず、一生懸命に油鉢を堅持して持ち歩き、無事命令を全うしたそうです。これは、一瞬の気の緩みから「油」で命を「断つ」場合もあるとの教えに由来する説です。

 もう一つは、「万葉集」に使われている「ゆたにゆたに(悠々と漂い動くさま)」を由来とする説、つまり、ゆっくりする意味の古語「ゆたに」が音変化して「ゆだん」になったという説です。

 また、比叡山にある「不滅の法灯(ほうとう)」は、天台宗を開いた最澄(さいちょう)の時代に始まり、以来一二〇〇年以上にわたって途絶えることなく灯っている。(実際は、比叡山は戦国時代に消えたことがあるが、分灯していたことが幸いし、引き続き法灯を守り続けている。)

 「油断」の語源は種々あるが、この「不滅の法灯」を消さないように、毎日、「菜種油」を注ぎ足している僧侶達の緊張感を思うと理解し易い。光は、ただ漫然と守られている訳ではない、生きた人から生きた人に脈々とうけつがれてきたからあるのである。弥山の「消えずの火」も然りである。

 人の人生にはちょっとした油断が命取りになることがあります。

 お酒を飲んで運転してはいけないのについ飲んでしまった。つい誤魔化すつもりでついた嘘が、大きな誤解を生み今まで築き上げてきた信用を失った。等々枚挙にいとまがありません。心の緩みがそうさせてしまうのです。だからこそ心を訓練しなければいけません。

 罪をひとつとして犯さぬことにより
 善が遍満する。
 肝要なのは、自らの心を清めること。
 これが仏の教えである。

 「ダンマ・パダ」の有名な一節です。罪を犯すか善きことを行うかは、心の在り方によるということです。大切なのは長い期間をかけて仏の教えと向き合い、教えを揺るぎないものとして身につけることです。教えを日常の生活に密着させ、生き方に反映させることが何より大切なのです。そのためには途絶えることのない「消えずの火」のように教えと向き合う、それは長い期間の中での繰り返しの結果として、教えの効果が現れるからです。修行とは繰り返し行うこと。

 今年も三鬼さんのお参りをして、自身を見つめる修行を油断なくいたしましょう。

合掌

(酒井太観)

 

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