今月の法話
■「仏道」【2019年12月の法話】
この世の中にはいろんな心の状態の人がいて、渾然一体となって社会がなりたっています。本来私達には、清らかで穏やかな(仏様のような)心と、わがまま、気ままな心が同居しています。本当の自己を実現し幸せな毎日を過ごすためには、我(我執)を抑えて心を良い方向へ導く修行をしなければなりません。相手を変えるのではなく、まず自分が変わったときに、何かが変わり始めます。善悪や是非では決着しないのです。そのための心の修行なのです。
日本には、様々な「道(どう)」がつくものがあります。剣道、柔道、茶道、華道、そして仏道や神道(惟神道(かんながらのみち)ともいう)にも道がつきます。それらの「道」には、必ず「型」というものがあり、「型」には厳格(例外をつくらない)なきまりごとがあり、それについて問答は無用とされています。「型」とは「形から入って心にいたる」ための一つの手段であり、繰り返し、繰り返し、行なうことにより、本質(心)にいたるよう、組み立てられています。
しかしながら、朝夕の神様仏様のお勤めにしても、感情や欲にとらわれやすく、「今日は疲れているから明日からやろう。」「もっと遅い時間にしたい」などと考えがちです。いわゆるわがまま、気ままな心の「我」(我執)がそうさせるのです。
「稽古とは一より習ひ十を知り十よりかへるもとのその一」
どんな世界であれ、達人と呼ばれる人たちは日々の修練を怠らない。くり返し行ない身についたものは、やがて無意識のうちにできるようになるが、真の達人は、なにかが身につくたびに新たな学びを発見する。そうやって一を十にしたあとは、ふたたび一から学びが始まるのである。稽古や学びにこれでいいという終わりはない。練習を重ねれば重ねるほど、学べば学ぶほど自分の無知や未熟さを思い知らされる。この世は変化してやまない無常の世界であるということを、達人たちはだれよりも知り尽くしています。
「型」にはまり繰り返し、繰り返し、正しく行なうことにより、「我」から「無我」へと転じて行く。この我執を、取り除いて行こうというのが仏道修行であり、幸せへの道なのであります。
(酒井太観)