今月の法話

■「存在している」の意味【2020年8月の法話】

 

 昔の言葉に「百花為誰開(ひゃっかたがためにひらく)」とあります。解釈するならば、「花はいったい誰のために咲くものなのか」ということになります。その問いに答えるとすれば、「それは誰の為でもない」となるだろうと思います。花はそこに咲いているだけで誰かの為に花を咲かせたり、かぐわしい香りを放っているのではなく、その自然のあり方を説いています。しかしそれでは花が咲いている意味がないということではなく、花には花の、草木には草木の存在価値、意味というものがあります。

 お釈迦様は「人も、鳥も、花も、この世に存在する生きとし生けるものすべては、ことごとくみな成仏なのだ」と説いています。それぞれ存在するに値する、十分な価値があるのだと教えています。そこに生きているだけでれっきとした価値があるのです。またそれは私たちの経験においても同じではないでしょうか。私たちの今までの経験も、価値ないなんてことはなく、必ずどこかで生きるための糧(かて)となります。

 ついつい人は「こんなことをしても仕方ない」「これはいらない」「これは無駄だ」といろいろなものを切り捨ててしまいます。時代の流れが速くなり、合理化され、便利になればなる程、その傾向は強まるばかりと思います。さてそれが本当にいい社会を生み、本当の幸せな人生を作ることができるのでしょうか?人間にも社会にも、もっとゆとりと遊びが必要だと感じませんか。遊びといっても「遊び心」「余裕」といった意味合いのものです。

 昔、お寺のお堂の修復を手伝った時に大工の棟梁は、足場を鉄パイプで組まず、すべて丸太と板で組みました。時間も手間もかかるので今の考えでは無駄なこと以外何ものでもありませんが、棟梁いわく木の方が適度にしなるので、バランスが取りやすくこっちの方が仕事がはかどる、これが千年以上も続いている伝統のやり方だと、確かにそうでした。又、板を貼る時、板の節に穴が開きます。そこを「ひょうたん」や「将棋のコマ」の形に削り埋めてしまいます。なんとも粋な遊び心に満ちたやり方だと思いました。

 今の時代の流れの中で「無駄」「いらない」「非効率的だ」と言われても何かしらの存在価値はあります。大事なのは効率化、合理化が進んだ世の中だからこそ心にゆとりを持つこと、ときにはゆったりと遊び心のある時間をたっぷり使ってみてはどうでしょうか。目の前に咲く花の美しさを改めて感じれると思います。

合掌

(三松庸裕)

 

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