今月の法話

■「利他の心」【2022年1月の法話】

 

 新型コロナが引き起こした世界的パンデミック状況は、私たちにとって未だかつて経験も予想もしなかったような事態となりました。まず第一にそれは『日常の剥奪』だった。私たちにとっての『日常』とは、それを通して生きていることを確かめるための具体的な手がかりである。変わらない日常に支えられていることは、自分が確かに存在し、明日が今日と同じように存在し、いつもの心許せる人々に囲まれていることを意味している。したがって、日常が恒常性を失うとき、私たちは自分がいることの確かさも、生きることの見通しの確かさも、自分を支える人々の確かさも見失うことになります。自然災害や戦争・紛争の災禍と違うのは、新型コロナという災禍の特徴は、日常や風景を構成するものは何一つ破壊されていないのに、日常性だけが失われるという、私たちにとっては非常に意味の分かりにくい状況だったと考えられます。もう一つの特徴は、『相手が見えない闘い』だったということではないでしょうか。それは感染対策はするものの、防ごうとする相手は不可視なままなのだ。街を歩いていて、誰が感染者なのかも見えない。それは確実に人々の心の中の歪み(ストレス)を引き起こす要因として作用し、不安と恐怖からくる猜疑心や敵愾心を生じさせる結果となりました。またそれは、私たちにとって、医療・経済・外交・産業など途轍もない大きな領域に及ぶ多様な問題の複合体でもありました。端的に言えば生活そのものの問題として、私たちが生きることを脅かしたのです。

 近年多発する自然災害やこのたびのパンデミックは、仏教で説くところの共業(ぐうごう)という言葉を考えてしまいます。これは万人に共通する業を顕しています。業とは必ず原因があり原因をサポートする条件(縁)により結果を招くという思想です。豊かさの象徴である経済至上主義は、多くの地球資源を採掘・破壊消費して地球温暖化の原因を招き、食の安全のための莫大な食糧廃棄、必要以上に命を奪いそして生態系を破壊してきました。それはすべて私たちの業(行為)によって起因しています。

 世界の有り様と私たちの幸不幸は密接に関係があり、すべては我々一人一人の有り様にかかっているのです。そのためには、他者に対する思いやりと利他の心(親切心と助け合いの精神)という良い業の種をまき続けていくことが、人類とすべての生きとし生けるものへの幸せへつながるのではないでしょうか。心にひかりを、くらしに愛を。

合掌

(酒井太観)

 

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