今月の法話

■「完璧の先には」【2022年9月の法話】

 

 九月に入り、今年もまだまだ残暑が続き、暑い初秋を迎える事となっておりますね。又、コロナ禍もおちつく事もなく、なかなか心も身体ものんびり過ごす時間を持つ事もままならない所でもある様に思います。そういう所で、大聖院でも月に二回、弥山に於いて、満月と新月を見て、修行体験をする場を催しております。その中で満月の会、十五夜の月のことを「明月(めいげつ)」と言います。雪もなく、音もなく、暗闇の中で混じりけのない、まさに完璧な月という意味で、この「明月(めいげつ)」は仏さまの光に喩えられるほどすばらしいとも言われています。

 しかし、仏の教えの中には「清風払明月(せいふうめいげつをはらう)」という教えがあります。「明月」というのは、もちろんそれだけでもすばらしく、美しいものですが、そこにさわやかな風がサッと吹き抜けたとしたら、それはさらに美しく清らかな世界になる。そんな美しさを表した言葉です。

 目の前にある「明月」が絶対無二の完璧な満月の姿と決めつけず、その先は必ず存在しているということです。そんな柔軟で、決めつけない感覚を持つ精神が大事だと教えています。

 これを私たちの人生に当てはめてみると、苦しく、悲しいことが何も起こらず幸せという完璧で、順風満帆な人生がある一方で、苦境に立たされ、辛い出来事に遭遇したり、今では、自然の災害にあったり、コロナにかかってしまって辛い思いをしたからこそ「人の温かみ」に気づいたり、その時にしか感じられない「かけがえのないもの」を気づかせてくれているのかもしれません。辛い出来事に遭遇したからこそ、感じられる幸せがあるということです。だからこそ、みなさんに起こる出来事を安易に「良い・悪い」と完璧を決めつけるのではなく、あるがままに自然体で受けとめてみれば、きっと何か感じるものがあるはずです。秋の夜空、「明月」を見て柔軟な心で何か感じる物をさがしてみてはいかがでしょうか。

合掌

(三松 庸裕)

 

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